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東鶏冠山北保塁

東京都府中市の整体(カイロプラクティック)院・府中市役所西整体院の日常を書いています。
2013/06/15(土)
日露戦争の戦跡めぐり、203高地の次は

「東鶏冠山北保塁」

(ガイドブックには、『とうけいかんざんきたほるい』、しかし、
モノによっては『ひがしけいかんざんきたほるい』どちらなのでしょう?)
東鶏冠山北保塁 壁文字

『坂の上の雲』には
旅順要塞の砲台群のなかで開戦いらい魔王的な力を発揮した
と書かれています。

「保塁」とは要塞の陸側を守る防御陣地のこと。
東鶏冠山北保塁 壁文字アップ

この東鶏冠山北保塁は、
旅順港を守るためにロシア軍が作った旅順要塞の一部で、
「兵舎」「台所」「弾薬庫」などを備え、ここだけでも小さな要塞といえるようです。
東鶏冠山北保塁 看板

要塞化された旅順の街を守るための最前線。

敵を近付けないために、ここから攻撃するわけですから、
敵の大砲の弾が街中に届かないように、
旅順市街の中心部からは少し離れた場所にあります。

その他の「保塁」も現存しているようですが、観光地化はされてないようでした。

ここも日露戦争の激戦地。

攻める日本軍は一万人近くが戦死し、守るロシア軍はほぼ全滅だそうです。
東鶏冠山北保塁 弾痕

日本軍はトンネルを掘り、ダイナマイト2.3トンを使い、
地下から爆破してようやく陥落させました。
東鶏冠山北保塁 日本軍爆破口

当時、ダイナマイトは発明されて間もない時代、
高価な物を大量に使ったのではないでしょうか。

人的、物的に膨大な量を投入していますね。

東鶏冠山北保塁 日本軍爆破口 石碑

日本人が建立した石碑
東鶏冠山北保塁 石碑

石碑の説明
東鶏冠山北保塁 石碑 説明
東鶏冠山北保塁は1904年の日露両軍が争奪された主要戦場の一つであり、戦後、
日本「満州戦積保存会」が1916年にこの石碑を建てられた。
石碑の高さは6メートル、青いみかげ石で造られ、
石碑の名前は日本の鮫島重雄中将が題名したものである。

(原文まま)

東鶏冠山北保塁にて重要な「コンドラチェンコ少将戦死の碑」
コンドラチェンコ少将戦死の碑
この一角は、天井が陥没し、崩れ落ちていました。

コンドラチェンコ少将戦死の碑 解説
1904年日露戦争が勃発後、日本軍は東鶏冠山北保塁を奪い取るため
129日の攻守戦を展開した。
12月15日の20時ごろ、ロシア陸軍防御司令官であるコントラチェインコ少将は
保塁の指揮部に来て軍事会議を行う。日本軍はこの情報を知ると、
すぐに重砲(280mm榴弾砲)を激しい攻撃をし、指揮部は一枚の砲弾に命中され、
コントラチェンコ少将が殺された。戦後、日本軍はその寛大な度合いと
顕著な戦績を誇示するため、
ここに「コントラチェンコ少将の戦死の場所」という石碑を建てられた。

(原文まま)

コンドラチェンコ少将が戦死したことにより、防御力が目に見えて落ちたそうです。

『坂の上の雲』には、「東鶏冠山北保塁での戦い」また、コンドラチェンコ少将に
関して、ページを割いて書いてあります。

お知りになりたい方は、ぜひ読んでみてください。

上記、東鶏冠山北保塁入り口の看板にあった説明(写っていませんが)

1898年帝政ロシアが旅大を強引に借りた後、旅順を長期的に占領するために、
1900年より中国労働者にこの永久的な防御工事を築造するように強制した。
これは帝政ロシアが旅順東側にある重要な工事であり、
北側の開○地の制御に用いられる。
1904年日露戦争が始まった後、ここは日露戦争の重要な戦場となった。
8月21日に、日本軍第11師団は攻撃を始め、なかなか奪い取れないため、
坑道発破により保塁に近づけていた。12月15日に、ロシア軍陸軍司令
コトラキンカ少将が日本軍の重砲で保塁内の
司令部で砲撃に当たり死んだ。
12月16日に、日本軍は保塁の正面に2.3トンダイナマイトをいれて
大きい発破で北保塁を占領した。

(原文まま)

次は、水師営(の会見所)

【参考】

♪ここは~おくにを~なんびゃくり~♪という曲。

『戦友』、日露戦争の頃をうたっているそうです。

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